世界を良く知るキーワード。Q&Aにまとめました。

Q1:非同盟運動とは、どんな運動ですか?
Q2:非同盟運動の歩みはいつごろ、どのように?
Q3:平和五原則とは、どんなことですか?
Q4今、パレスチナで起きていることとは何ですか?
Q5:パレスチナ、イスラエル問題とは何ですか?
Q6:アラファトさんは、どんな人ですか?
Q7:イスラエルは、どのようにして建国されたのですか?
Q8:アメリカは、どんな役割を果たしているのですか?




Q1: 非同盟運動とは、どんな運動ですか?
A1  20世紀後半の国際政治において重要な潮流となった運動。大国中心の軍事同盟に加わらず、世界平和の実現と各国の民族自決権の尊重、公正な世界秩序の構築と経済的秩序の樹立を目指す運動です。アジア、アフリカ、ラテンアメリカの発展途上国が機軸となって活動している運動ですが、資本主義諸国の人民の運動や非政府組織(NGO)等の運動との連帯、連携も進められています。


Q2: 非同盟運動の歩みはいつごろ、どのように?
A2 1955年、インドネシアのバンドンで植民地支配に苦しめられてきたアジア、アフリカの29カ国の代表が、アジア、アフリカ会議を開きました。アフリカでも独立運動が盛んとなり1960年は、17カ国が独立し、「アフリカの年」と呼ばれています。

これらの平和、独立のための闘いは、戦後の米ソ両大国による軍事ブロック支配に組み込まれることのない世界を目指す潮流となります。翌1961年、ユーゴスラビアのベオグラードで非同盟諸国首脳会議が発足し、以後非同盟運動は、国際社会においてその影響力を広げてきています。今日、国連加盟国189カ国中、非同盟首脳会議加盟国115に至っています。



Q3: 平和五原則とは、どんなことですか?
A3  1955年のアジア諸国民会議(インドのニューデリー)で採択されました。この原則をもとにしてアジア、アフリカ、ラテンアメリカ連帯委員会の前身である日本アジア連帯委員会が国内において発足しました。

  1. おたがいに相手国の領土と主権を尊重する(領土主権の尊重)

  2. おたがいに相手国を侵略しない(対外不侵略)

  3. おたがいに国内政治に干渉しない(内政不干渉)

  4. 平等の立場でおたがいの利益を尊重する(平等互恵)

  5. 国の体制は違っても平和的に共存し排除しない(平和的共存)

 この原則はバンドン会議の平和10原則へと発展し、これらの原則をもとにして非同盟運動が伸展します。来年度は、マレーシアで第13回の非同盟首脳会議が開かれます。日本アジア・アフリカ・ラテンアメリカ連帯委員会(AALA)は国内において、この会議に参加資格を持つ唯一の団体です。



Q4: 今、パレスチナで起きていることとは何ですか?
A4  今年(2002年)に入って幾度となく「イスラエル」への自爆テロが報道されています。「私たちには、これしかないのだから」と語るパレスチナ人。イスラエルによるパレスチナ自治区への軍事侵略が繰り返され、テロへの報復が続いています。

 イスラエルのシャロン(首相)は「これは対テロ戦争」であるといいます。1993年のパレスチナ暫定自治協定、オスロ合意から10年。パレスチナ自治政府をテロ支援体制と指定し、アラファト議長を監禁状態にしました。ジェニン難民キャンプでは大量の虐殺が行なわれました。報復戦争と自爆テロの繰り返しで、近づき始めたパレスチナ、イスラエル和平は、手の届かないところに遠くなるだけなのでしょうか。



Q5: パレスチナ、イスラエル問題とは何ですか?
A5  世界中に離散したユダヤ人のパレスチナ植民を国際的に組織してきたシオニズム運動と、これを「中東」支配の装置として利用しようとしてきた大国(イギリス、フランス、ソ連、アメリカ)の政策が複雑に絡み合って出来た国際的、社会的紛争問題です。

 1948年のイスラエル建国によってユダヤ人国家がパレスチナの地につくられますが、その時以来、4次にわたって「中東戦争」が、イスラエル対アラブ諸国との間で行なわれてきています。ユダヤ人のパレスチナ植民、イスラエル建国とパレスチナ人排除とに起因する問題が新たな戦争を生んだのです。

 パレスチナ住民は、50年以上にわたる難民としての歴史を背負いながら、イスラエルと戦うことを通じて自らをパレスチナ人として育てあげ、パレスチナ民族主義を支えにしたパレスチナ独立国家の建設を目指しています。それは、イスラエルとの共存が可能であるかを試す問題でもあります。



Q6: アラファトさんは、どんな人ですか?
A6  ヤーセル・アラファトは、1929年にエルサレムに生まれました。カイロ大学で土木工学を専攻。全パレスチナ学生連合議長として活躍。1950年代の末、パレスチナ人によるパレスチナ解放のための組織「ファハタ」を結成。ゲリラ活動に入ります。1969年、PLO(パレスチナ解放機構)の第3代議長に就任。1974年に開かれたアラブ首脳会議で、PLOは「パレスチナの唯一の正当な代表」と認められるまでになります。

 同じ年、アラファトは国連総会に出席。「どうかオリーブの枝を私の手から落とさせないで下さい」とアピール。1976年、国連もその権利を認めます。1982年、イスラエルによるレバノン侵攻でベイルートを追われます。1988年、アラファトは国連安保理決議を受け入れ、イスラエルの生存権を承認、テロ対策の声明を出します。アルジェのPNC(パレスチナ民族評議会)はパレスチナ国家建設を宣言します。

 その一方でイスラエルが占領しているヨルダン川両岸、ガザなどで起きたパレスチナ人の全面蜂起(インティファーダ)の運動は国際世論を呼び起こし、和平合意への道が切り開かれます。1993年、パレスチナ暫定自治を認めるオスロ合意が成立。翌年パレスチナ自治政府が発足し、総選挙の結果、代表にアラファトが選出されます。

 当時のイスラエル首相ラビンと共にノーベル平和賞を受けます。

 2001年、イスラエルでシャロン政権が出来て以後、再びパレスチナ人とイスラエル軍が対決する事態が続いていますが、アラファトは、パレスチナ人の民族自決権を実現しようとする闘争から生み出されたリーダーであることは誰も否定できない事実です。



Q7: イスラエルは、どのようにして建国されたのですか?
A7  ユダヤ人は、かつてパレスチナの地にいくつもの王国を打ち立て、その盛衰が繰り返されてきましたが、ローマ帝国の支配下の時代にユダヤ人の離散は決定的となり、各地に移住していくようになります。

 しかし、キリスト教社会であるヨーロッパでは、イエス・キリストの処刑に加担したユダヤ教徒が差別や迫害の対象となります。こうした反ユダヤ主義の中、19世紀末からパレスチナにユダヤ人の国家を建設しようという運動(シオニズム)が起こります。

 第1次世界大戦当時、この地を支配していたトルコと敵対していたイギリスは戦争への協力を取り付けるために、アラブ人にはその独立国家を約束し、ユダヤ人にはパレスチナにユダヤ人の国家建設を約束することとなります。このようにしてアラブとユダヤのパレスチナをめぐる争いの原因がつくられます。

 その後ナチスの迫害から逃れて多くのユダヤ人がこのパレスチナにやってきます。しかし、自分たちの土地を守ろうとするパレスチナ人と新しいユダヤ人の国をつくろうとするユダヤ人との間で争いが大きくなります。

 第2次世界大戦後の1947年、国連総会はパレスチナをユダヤ人国家とパレスチナ人(アラブ人)に分割する決議とエルサレムを国際社会の管理下に置くことを決定します。この分割案はユダヤ人側に有利な内容であり、アラブ側はこれを認めませんでした。

 1948年、イスラエルの独立が宣言されます。ユダヤ人の2000年来の願いが達成された年であります。新しい国の誕生は新たな戦争の始まりでもありました。



Q8: アメリカは、どんな役割を果たしているのですか?
A8  イギリスがパレスチナの統治に失敗し手を引いた後、イスラエル建国に関わって影響力を行使したのはアメリカとソ連です。共に国内には、多くのユダヤ人を抱えている国でもあります。

 その後、今日に至るまで大きな支援を行なってきているのはアメリカであり、イスラエルとパレスチナの間に立って調停も試みています。

 しかし、アメリカの狙いは、イスラエルを支援することによって「中東」におけるアメリカの影響力を保つことに置かれています。イスラエル支援は、アラブ世界に打ち込まれた杭であるとの見方もあります。北東アジアにおける日本とアメリカの関係を想起していただいてもよいといえます。

 パレスチナとイスラエルは1枚の硬貨の裏と表であるとの見方もあります。どちらにしても、イスラエルの生存権が認められ、かつパレスチナの民族自決権が認められることなくして、この地での和平はありえないといえます。

 




参考文献:
岡倉徹志 「アラブのゆくえ 」 岩波ジュニア新書
立山良司 「イスラエルとパレスチナ」 中公新書
日本イスラム協会 「イスラム辞典」 平凡社
「〜特集〜パレスチナとイスラエル」歴史地理教育No644(雑誌)2002年10月号
「政治経済総覧」前衛臨時増刊No636(雑誌)1993年
土井敏邦 「アメリカのユダヤ人」 岩波新書
土井敏邦 「和平合意とパレスチナ」 朝日選書


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